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ヨコハマ海洋市民大学2023年度講座 第6回「海のマニア、運河に大集合!」を開催しました!

ヨコハマ海洋市民大学実行委員会は2023年度第6回講座「海のマニア、運河に大集合!」を開催しました。横浜の海が抱える社会課題の解決に挑戦する市民を養成するため、今回は大岡川流域を船で巡り運河の歴史や海辺のまちの発展について学び、今後にも思いを馳せました。

2023.12.15

ヨコハマ海洋市民大学実行委員会は、令和5年11月26日(日)に横浜の海が抱える社会課題の解決に挑戦する市民を養成する講座ヨコハマ海洋市民大学2023年度第6回講座「海のマニア、運河に大集合!」を開催いたしました。

このイベントは、次世代へ豊かで美しい海を引き継ぐために、海を介して人と人とがつながる“日本財団「海と日本プロジェクト」”の一環です。

概要
「横浜の海が抱える社会課題を自ら考え、解決できる市民(海族・うみぞく)」を育成するヨコハマ海洋市民大学2023年度講座(年10回開催)の第6回目「海のマニア、運河に大集合!」を開催。
開催日時
2023年11月26日(日)
開催場所
横浜日の出桟橋(出航場所・横浜市中区)
参加人数
28名(受講生24名、ゲスト1名、講師・実行委員3名)
共催
日本財団 海と日本プロジェクト
後援
横浜市、海洋都市横浜うみ協議会

イベント内容

今回の講座は、横浜市西区在住のヨコハマ路上観察学会世話人、大岡川運河史を研究する河北直治さんにご登壇いただきました。

みなとみらいエリアと関内・関外(かんがい)エリアを分けて流れる大岡川とその分流である中村川や堀割川を船で巡り、江戸末期から明治、大正、昭和中期まで活躍していた運河の歴史や海辺のまちの発展について学び、今後の川(運河)の在り方などにも思いを馳せる講座となりました。冷たい小雨のぱらつく中、熱い受講生が集まり船に乗り込んだら講座のスタートです。

クルーズは京浜急行日ノ出町駅近くの横浜日ノ出桟橋からスタートしました。現在の大岡川を図で見ると、実は大きく干拓された土地の北(上)側を流れています。

江戸初期までは現在の河口から数キロ上流までここは大きな入海だったそうです。干拓前の河口は図の左端の方、現在の蒔田公園周辺だったとのこと。そこから海に向かう大きな三角形の入江に吉田勘兵衛という江戸期の実業家が水田(吉田新田)を完成させたのが1667年(寛文7年)。なんと11年もの期間を要し、海(入江)に田んぼを作っても塩に弱い稲が育つことはないためかなりの難工事だったようです。海水と真水の混じり合う汽水域で干拓をし、常に真水を供給し、海からの塩分を遮断する技術はかなり高度なものだったらしいのですが、なんと関東大震災でその資料のほとんどが消失してしまい、どのような技術が使われたのかは不明です。

物流が現代ほど発達していない時代の食糧は地産地消が基本でした。人口が増えるに従い新しい田んぼ(食糧)が必要とされていたようです。その11年もの歳月を要した干拓事業は入海に田んぼの島を作ったようなイメージです。その田んぼの島が出来たことにより図のようなエリアの上側に大岡川が延長され、南(下)側に新しく中村川・堀川(幕末)が出来ました。このエリアはその後吉田新田以外にも干拓、埋立され現在の関内、関外と言われるエリアが出来上がって行きます。その中で大岡川、中村川を中心に運河としての活躍が始まります。現在はその痕跡を残すだけとなっていますが、吉田川、新吉田川、富士見川、日ノ出川などがその代表的なものです。痕跡として分かりやすいのはみなとみらい地区を地下に潜って関内駅あたりを通る首都高速はかつて運河で、西へ伸びる大通り公園も運河を埋め立てて作られたものだそうです。

そんな運河がおもに何を運んでいたのかというと実はエネルギーだったのです。運ばれていたのは、石油ではなくなんど”薪”でした。

戦前まで日本の生活のためのエネルギーはほとんどが薪で賄われていました。もちろん日本の開国後、明治には横浜にも外国の石油会社がありましたし、大正時代には石油を盛んに運搬していました。それは現在で言うところのスモールグリッド、電気の地産地消のためでした。市電も地域ごとに発電所を設け、運行をしていたようです。そのエネルギーも運河を使い燃料を供給することで可能となっていたようでした。とはいえまだそれ程の量でもなく、多くは薪や建築資材、輸出用の木箱などを作る木材でした。それゆえに大岡川の流域では今でも川沿いに建てられた材木屋さんを見ることができます。古くはお茶を輸出するための茶箱、のちに横浜からの輸出のメインとなる絹を運搬するための木箱やその材料などがたくさん運ばれたようです。それらに付随して必要な紙問屋なども繁盛したようだと河北さんは語ります。

また役目を終えた吉田新田も干拓地から埋立地へと姿を変え、他の土地も造成地、そして宅地や商業地域へと姿を変えて行きます。そのための建築資材や生活用品運搬にも運河は活躍していました。そしてこれらの材木など運搬品を船に積み込むための階段護岸(雁木・がんぎ)もたくさん造られました。河北さんはこの雁木に興味を持ち、一体どれくらいの雁木があったのか調査するために河川の地域ごとに造られていた地図を元に、拡大コピーをしながら一枚の大きな地図へと作り変え、その地図の中にある雁木を一つづつ数えたそうです。

そしてその数はなんと運河エリアに225個もあったそうです。

もう一つ覚えておいて欲しいのが中村川から磯子へと分流する堀割川です。こちらは開港後、磯子方面から横浜市街への物流のために作られました。このたった2.7kmの堀割川ですが明治7年に造られたままの姿を多く残しており、川自体が土木遺産として認定されているそうです。橋や建物ではなく川そのものが認められるのは珍しいらしいそうです。

橋の下にくると河北さんの声がさらに大きく響いて聞こえます。ご本人もこのエコーで一曲歌いたいと冗談を言うほど、いい響きです。これもまた橋ごとにデザイン、材質、響きが異なり、これだけでもクルーズのテーマになってしまいそうです。

今回は大岡川、中村川、堀割川で運搬されたエネルギー(薪や石油)、材木などの輸出商品関連、建築資材、生活用品、かつて輸出のメインであったお茶や絹などのお話を中心に運河の成り立ちを通じた海辺のまち横浜の発展をお話していただきました。

また石川町の中村川には新しい浮桟橋が建設中で、出発をした日ノ出桟橋やその他にも新しい桟橋が増えつつあり、これからの水上交通なども期待を持たせるクルーズとなりました。

参加者の声

・今まで見過ごしてきた事柄を再認識させられた。知る、ということの大切さを認識したいい機会になった。
・陸から見る景色と全く違い、船からしか見えない景色や歴史に触れられ、非常に勉強させていただきました。
・当日の悪天候に備えたご連絡、ホカロンやカッパまで、至れり尽くせりのイベントでした。

 

イベントレポートは実施事業者からの報告に基づき掲載しています

参加人数:28人