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ヨコハマ海洋市民大学2023年度講座 第8回「横浜の灯台大集合〜横浜の発展を支えた灯台たち〜」を開催しました!

ヨコハマ海洋市民大学実行委員会は、ヨコハマ海洋市民大学2023年度講座・第8回「横浜の灯台大集合〜横浜の発展を支えた灯台たち〜」を開催。灯台発祥の地と言われる横浜で、灯台マニアでフリーペーパー『灯台どうだい?』編集長の不動まゆうさんを講師に招き、灯台について理解を深めました。

2024.02.07

ヨコハマ海洋市民大学実行委員会は、令和6年1月11日(木)に横浜の海が抱える社会課題の解決に挑戦する市民を養成する講座ヨコハマ海洋市民大学2023年度第8回講座「横浜の灯台大集合〜横浜の発展を支えた灯台たち〜」を開催いたしました。

このイベントは、次世代へ豊かで美しい海を引き継ぐために、海を介して人と人とがつながる“日本財団「海と日本プロジェクト」”の一環です。

開催概要
「横浜の海が抱える社会課題を自ら考え、解決できる市民(海族・うみぞく)」を育成するヨコハマ海洋市民大学2023年度講座(年10回開催)の第8回目「横浜の灯台大集合〜横浜の発展を支えた灯台たち〜」を開催。
開催日時
2024年1月11日(木)
開催場所
象の鼻テラス(神奈川県横浜市中区海岸通1‐1)
参加人数
54名(受講生46名、ゲスト1名、講師・実行委員7名)
共催
日本財団 海と日本プロジェクト
後援
横浜市、海洋都市横浜うみ協議会

今回の講座はフリーペーパー『灯台どうだい?』編集長の不動まゆうさんにご登壇いただきました。不動さんは本業を続けながら自費で世界中の灯台を巡り『灯台どうだい?』を編集・発行され、日本各地への発送までを行っている、まさに灯台マニアさんです。灯台発祥の地と言われる横浜は「日本各地の灯台を支えた地でもある」。そんなお話から講座は始まります。

横浜は灯台発祥の地

「横浜に『灯台発祥の地』と言われる場所があることを知っていますか?」という講師からの問いかけに受講生の3分の1が手を上げました。横浜市中区北仲通にある公園の一角に、レンガ積みで八角形をした台座らしきものが現在も残されています。明治2年、この地には日本全国の灯台を建設、管理するための役所が置かれたそうです。国の組織改変もたびたびあり、名称も幾度となく変わったようですが、明治2年当初は『燈明臺御役所』という名称で、『日本の灯台の父』として有名なブラントン(リチャード・ヘンリー・ブラントン)もここで灯台機器の試験に立ち会っていたとのこと。また各種試験や灯台守育成のための『試験灯台』が、のちの明治6年に作られました。

初代試験灯台はレンガ造で高さ12mでした。明治7年11月15日に初点灯(灯台の誕生日・今年150周年!)した犬吠埼灯台(千葉県銚子市)のレンズはこの試験灯台で点灯試験されたものだそうです。この辺のお話もかなりマニアックで詳細に調査されています。初代試験灯台が建設されたのは明治6年9月ですが、初点灯は明治7年3月18日とされています。これは上述の犬吠埼灯台のレンズを試験するためにここで点灯した日が試験灯台の初点灯日となっており、さらにこの日は明治天皇皇后がご臨行されこの初点灯をご覧になられたという記念すべき日だったそうです。江戸時代の日本には神社の灯籠(とうろう)のような姿をした日本式の灯台しかありませんでしたから、3m弱の大きなレンズで集光し遠くへ光を飛ばす西洋式灯台の光には関係者どころか近隣の人たちもさぞかし驚いたことでしょう。

後に試験灯台は2代目に建て替えられ、高さは14mと少し背が伸びました。この八角形の試験灯台は関東大震災で、倒壊は免れたようですが他の施設と共に火災で消失してしまったようです。その後昭和7年に建てられた3代目試験灯台は昭和17年ごろ愛媛県に移設されました。この燈明臺御役所(明治3年以降『灯台寮』という名称)での灯台守さんの育成のお話もありました。なんと身体・学科試験から選抜された若者(17〜25歳)から、さらに2ヶ月の研修、実習に合格した者だけが灯台守になれたそうです。まさにエリートですね。

不動さんが今回講座資料を作成するのに調査を進めていたところで初めて知ったこともあったそうです。それは三重県志摩市の初代安乗埼灯台(あのりさきとうだい)が横浜に移設されていたという記録です。これはブラントンが建築した木造の灯台を取り壊さず建て替え保存するための方策だったようですね(志摩市→浜離宮公園→横浜(昭和30年〜47年)→現在は『船の科学館』(休館中))。


(左)八角形の台座が残る試験灯台跡 (右)講師の不動まゆうさん

ここで不動さんから灯台についての振り返りです。幕末の開国、開港時は諸外国と通商条約を結び、灯台を建てることが大切な国家事業となりました。これらのアメリカ、フランス、オランダとの条約(改税約書)で8灯台2灯船の建築を求められ、その後もさらにイギリスからも5個所に灯台建築を要望されています。しかし当時の日本には近代的な灯台建築の技術がありません。そこで幕府や明治政府は外国人技師を招聘し雇用します。彼らによって作られた日本で初めての西洋式灯台が観音埼灯台(神奈川県横須賀市)です。これは『灯台の父』と呼ばれるブラントンではなくフランス人技師団が建てたものです。横須賀のドックはフランス人技師団で指揮をとっていたヴェルニーが尽力したことで有名ですね。ただ灯台は4基しか建築していません。なので後に明治政府に雇われ約30基の灯台を設計したブラントンが『日本の灯台の父』と呼ばれるようになりました。

明治13年以降は外国人技師たちが帰国し、日本人で灯台を設計していくようになります。この中に石橋絢彦(いしばしあやひこ)という灯台技師がいます。この方は横浜関内駅近くに残されている橋の遺跡(吉田橋)の3代目建て替えを担当したそうです。不動さんは、吉田橋の2代目トラス構造の橋(通称かねのはし)を『灯台の父』ブラントンが設計したということと、のちの有名な日本人灯台設計者というつながりを発見して「灯台マニアとしては『おおお〜』と声が出るところなんですよね〜」と実に楽しそうでした(受講生たちは若干ポカンとしていました)。

石橋絢彦さんについては日本財団さんの海と灯台プロジェクトのコラムにも掲載されています。https://toudai.uminohi.jp/tag/石橋絢彦/

日本最古の防波堤灯台

山下公園から海を見ると沖合に見える小さな赤い灯台(横浜北水堤灯台)は明治29年に作られました。六角推の安定感のある姿をしています。不動さん曰く、他の灯台とはオーラが違うそうです。この防波堤と灯台は前出の石橋絢彦さんが関わっていると思うとのことでした。この日本最古の防波堤灯台は船で近くに行くことはできますが、内部は通常見ることができません。この後は内緒の写真で内部の解説がありました。

外部の1段目は建設当時のまま鉄のトラス構造なのですが、関東大震災以降はコンクリートで補強されているのが確認できます。大正初期まで灯台守が勤務して石油を使った灯台の火を守っていたそうですが、この日本最古の防波堤灯台もすでにLED灯器に更新されていて電球やレンズは使われていません。ここにあったレンズ(横浜標識製作所製)は横浜海上防災基地に保管されています。横浜標識製作所も久しく謎のメーカーだったそうですが、ある研究者がこのメーカーの親族を見つけ出し資料を確認することができたようです。これは地元神奈川新聞社のサイトでも見ることができます。
https://www.kanaloco.jp/news/life/entry-27843.html


(左)食い入るように話を聴く受講生 (右)撮影許可のあるスライドをメモに

このあと旧東水堤灯台(白灯台)のお話に移ります。この灯台は北水堤防灯台(赤灯台)に先立つこと1ヶ月半ほど前に完成初点灯しています。なので『現存する』日本最古の防波堤灯台は北水堤灯台ですが『日本最初の』防波堤灯台は?と聞かれたらこちらの旧東水堤灯台です(引っかけ問題ですよ!試験に出ます)。

こちらは昭和38年に山下埠頭の完成に併せ移設され役目を終えますがその少し前、昭和33年に横浜港を出航したイギリス船籍の客船カロニア号が衝突して壊してしまいます。その説明の時の講師不動さんの嘆きようをお見せしたいくらいでした。すぐさま仮灯設置され修復されるのですが、その数年後には移設されお役目を終了するという運命を「今度山下公園に行った際はぜひ労って声をかけてあげてほしい」と受講生にお願いしていました(まるでお母さんのようです)。

まだまだ講座は続きます。日本には3,000基の灯台があり、そのうちの3分の2にあたる2,000基以上が防波堤灯台です(犬吠埼灯台のような沿岸灯台は800基ほど)。混み合った湾内を航行する場合、GPSやレーダを見ていられず、前方を目視する必要があり、その際、ブイや防波堤灯台があることで航路を確認でき安全な航行に繋がります。

本牧にあったという灯台船

世界では現在もまだ使われている『灯台船』(灯台船というのは潮流によって地形が変わる砂州や、灯台の設置が難しい海上に錨泊して使われる灯台が乗った船)ですが、かつて日本にも存在しました。最初期のものは本牧と函館の灯船です。開港時海外と結んだ条約により2隻の灯台船が求められ、設置されたのでした。東京湾に進入してきた船は観音埼灯台を過ぎ本牧灯船を目印に横浜港へ進行していました。日本で初めての灯台はヴェルニー設計ですが日本で初めての灯台船設計は灯台の父ブラントン設計です。なにやら本家と元祖の戦いの様相を呈してきました(嘘です)。

本牧灯船の大きさは21m、世界共通で真っ赤に塗られていたそうです(現存写真はモノクロなのですが)。昼間は丸い形象物を掲げ灯船であることを示し、夜間は赤い光を放っていたそうです。船の中央にはレンズや形象物をしまう倉庫、後方にトイレ。甲板下前方には2段ハンモックの水夫部屋(熟睡できなさそう)と物置、後部には艇長室や応接室があったそうです。本牧灯船の写真は日本財団 海と灯台プロジェクトのコラムからどうぞ。
https://toudai.uminohi.jp/column/海の上に浮かぶ灯台/

灯台船の勤務はかなり過酷です。なんと1ヶ月に72時間しか上陸できないそうです。船は真っ赤なのにかなりブラックです。明治15年4月5日には霧鐘が設置され霧の濃い日には5分に一度鳴らしていたそうです。

昼間は通行船舶の見張りをしています。夜間は見張り番が2人、4時間ごとに交代するそうです。その見張りは船の通過時刻や形状を全部記録する義務があり、さらに3時間ごとに気象観測を行う必要があったそうです。また霧が出ていなくても30分ごとに鐘を鳴らして時刻を周辺に伝えていたようです。そして水夫だけが過酷な訳ではなく艇長は日の出日没時の1時間前には必ず乗船していなければならなかったそうです。

そしてこの灯台船、なんとまた(?)イギリス船籍にぶつけられてしまい、沈没してしまいます。幸いにも被害者はいなかったようですが、横浜港の灯台たちは自らの危険を顧みず、海を見守っていたのですね。

海外の灯台船は任務終了後にも民間によって活用される事例も多く、結婚式場や映画のロケに貸し出したり、録音スタジオとして活用されたり、アートの発信基地のような使われ方もしているそうです。

横浜で受け継がれる歴史の後

不動さんは、横浜に灯台寮・試験灯台ができる以前の歴史も大切だと考えているようです。古地図を見てみると古くは弁天様が祀られていました。現在は埋め立ても進み、現在の羽衣町に移転し厳島神社として祀られています。「灯台だけではなく横浜の歴史がいろいろ調査され、市の方のご尽力で案内看板も整備されていますので灯台の歴史と併せてまち歩きを楽しんでみてください」と力強く締め括られました。

質疑応答で印象的だったのが「なぜ灯台は美しいのでしょうか」という質問に「それは皆さんの心の中にすでにあると思います」と返すあたりがマニアさんだなーと灯台愛が溢れていてる回答だと筆者は感じました。もちろんそれだけではなく「海に出たものを無事に陸に帰す」という重要なミッションと必要なものが効率よく配置されている機能美によるものだと思いますとのこと。さらに質問で「GPSでその任務を終えつつあるように見える灯台ですが、これからの灯台のあり方は?」という質問にも「古くなったから要らないと捨てていいんでしょうか?その価値を見出すのは私たちのやるべきことなのではないでしょうか?」と熱い答えが返ってきました。

参加者の声

・オンラインだけれどずっと気になっていた不動さんの話を聞けてよかった。実に楽しかった。
・町に直接建っていないけれど、町の発展に大きく貢献してきた灯台について知ることができてよかった。
・何回聞いても必ず新しい情報があり、飽きることがない。

 

イベントレポートは実施事業者からの報告に基づき掲載しています

参加人数:54人